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第二章 誰も知らない私3

Author: 相沢蒼依
last update publish date: 2026-08-14 11:55:09

***

(……違う)

 澪は心の中で、静かに義母の言葉を否定した。

 あの契約は、智也を縛るためのものじゃない。私を守ろうとしてくれた、智也の優しさだった。なのに美佐子は知らない。

 息子がどんな想いで、あの紙にサインしたのかを。

「私が恩を盾にして、智也を縛っている……と思っているのね」

 澪は小さく呟いた。

 誤解を解く気力は、もう残っていなかった。

 なぜなら——三年前、私を守ろうとしてくれた人と。

 今日、私を「責任上の存在」と呼んだ人。

 その二人が、本当に同じ人物なのか。澪には、もう分からなくなっていたから。

 美佐子は離婚届を一瞥すると、ゆっくりと立ち上がった。

「話は以上です」

 澪は顔を上げなかった。

「あなたも分かったでしょう。智也の隣にいるべき人間が、誰なのか」

 その言葉が胸に突き刺さる。

 美佐子がバッグを手に取った、その時だった。

「母さん?」

 聞き慣れた声に、澪の身体が強張った。

 ゆっくりと入口へ視線を向けると、そこに御子柴智也が立っていた。そして、その隣に——。

「……智也くん、どうしたの?」

 白石琴葉が、柔らかな笑顔で寄り添っていた。上品なワンピースに、優雅に揺れる巻き髪。大学時代から変わらない、誰もが振り返る華やかさ。

 美佐子の表情が、わずかに緩んだ。

 智也は美佐子と澪の二人を見て、表情を強張らせた。

「どうして……ここに?」

「あなたのために、話をしていたのよ」

 美佐子が淡々と答える。

 智也の視線が、澪に向けられた。一瞬の驚き、戸惑い、そして明確な警戒。

 澪が何か言うのではないか——そう思っているのが、痛いほど伝わってきた。

 琴葉は澪に気づき、ぱっと明るい顔になった。

「宮坂先輩? こんなところで会うなんて、すごい偶然ですね!」

 無邪気な笑顔が、今は胸に突き刺さる。

 智也が素早く口を挟んだ。

「あ……紹介するよ。こちらは白石琴葉。昔からの知り合いだ」

 そして、澪を見てわずかに言葉を詰まらせた。

「……仕事関係の、知人だ」

 妻という言葉は、結局出なかった。澪の胸の奥が、静かに冷えていく。

「初めまして」

 琴葉が笑顔で頭を下げた。

「宮坂先輩ですよね? 神代先生の一番のお弟子さんだったじゃないですか」

 澪は小さく微笑んだ。

「ええ……昔はそうでした。今は、ただの事務員です」

 智也の態度は、冷静で落ち着いたものに見えた。けれど、澪は長年彼の隣にいたからこそ、その瞳に一瞬だけ浮かんだ安堵の色を見逃さなかった。

「そうなんですか……もったいないですね」

 琴葉が純粋に残念そうに言う。その悪意のない言葉が、余計に澪を傷つけた。

 澪は唇の端を上げたまま、静かに答えた。

「ええ。もう、研究とは縁がありませんから」

 本当は違う。私はまだ、あの研究所で研究を続けている。誰にも知られず、世界を変えるかもしれない仕事を。

 でも、それを説明する気力は、もう残っていなかった。

 目の前にいるのは、三年間愛してきた夫。そして、その夫が今、自分を「仕事関係の知人」と紹介した事実。

 澪はただ、穏やかな笑顔を保ったまま、胸の奥で静かに壊れていくのを感じていた。

 琴葉は胸の前で両手を握り締め、目を輝かせた。

「実は私、あの研究所にずっと憧れているんです。最先端の抗がん剤研究をしているって、業界では有名ですよね」

 智也が苦笑を浮かべる。

「確かに、あそこは簡単には入れないよ」

「一度でいいから、中を見てみたいんです。医薬品コンサルタントとして、一生に一度でも……」

 澪は静かに微笑んだ。

「そうですか」

(あそこは……私の本当の居場所なのに)

***

『君なら任せられる』

 神代先生の言葉が、今も耳に残っている。

 反対の声が飛び交う研究室の中で、先生はただ一人、澪を信じてくれた。

『宮坂は才能と覚悟は、彼女が誰よりも持っている。このプロジェクトを彼女に預ける』

 国家機密指定の抗がん剤開発プロジェクト——その総責任者。

 若すぎるという批判をものともせず、先生は背中で守ってくれた。

***

「宮坂先輩?」

 琴葉の声で現実に引き戻される。

「すみません、考え事をしていました」

「研究所、本当に素敵ですよね」

 澪は穏やかに微笑んだ。

「ええ……ご健闘をお祈りします」

 それだけを言い残し、澪は静かに席を立った。

 ホテルを出ると、冷たい夜風が頰を撫でた。

 澪は自宅とは逆方向へ足を向ける。向かう先は、研究所だった。

 人気のないエントランスを抜け、『関係者以外立入禁止』の扉の前で社員証をかざす。

 ――ピッ。

 重厚な専用エレベーターの扉が開き、澪は迷わず乗り込んだ。行き先は地下。そこは一般社員が立ち入ることのできない、最深部の研究施設。

 表向きは「ただの事務員」として扱われ、夫にさえ軽んじられている宮坂澪こそ——国家機密レベルの抗がん剤開発プロジェクトを率いる、主席研究員だった。

 エレベーターは静かに地下へと降りていく。

 澪は閉ざされた扉を見つめながら、静かに唇を噛んだ。

(……もう、限界かもしれない)

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  • 妻の100万円の願いは拒否、初恋相手には5000万円⁉ 離婚後の天才妻は御曹司に溺愛される   第四十一章 消せない記録2

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